淫獣捜査 隷辱の魔罠
【79】 反逆者
けたたましい警報音が鳴り響いていた。
それによって施設内の全ての人が手を止めて、事態の把握につとめている。
各所に設置されたモニターが一斉に異常を知らせる赤画面に切り替わるのだが、本来なら一緒に表示されるはずの情報欄には何の記載もない。
ーーこの警告は誤報……
多くの人々の脳裏に浮かんだのがそれだった。そのため、警報による大きな混乱は結果的に避けられていた。
しかし、すぐに解除されると思われたそれは一向に止まる気配がない。
次第に不安に見舞われても浮足立つ者が増えてくる。その対応に追われてスタッフの多くが慌しく動くことになった。
そんな施設の中で、俺のいるこのホール内では騒いだり、慌てる者は皆無だった。
会員の中でも特に選ばれたVIP会員たち、何かしらの企業や組織の頂点、または重要なポストについている者ばかりだ。
常に人の上に立ち、毅然と組織の行き先を決めていく彼らは肝の座り方からして通常の会員たちとは違うようだ。
平然とソファーに座り、中にはグラスを傾けている者までいる。それでいて、すぐに不測の事態に対応できるように心構えはしているのだ。
だが、受け身でいられる会員たちとは違い、運営する側は、そう悠長にことを構えているわけにはいかない。
少しでも早く事態を収束するべく慌ただしく動いているのだった。
「どういうことだ、状況を知らせろ……えぇい、それは先ほども聞いたわッ」
情報が交錯しているのか、端末を手にした支配人は苛立ちを隠せずに声を荒らげていた。
執事のように悠然と構えていた彼が、そこまで醜態をさらすことからも想定外な事態であるのが容易に推測できた。
問答を繰り返した結果、ここでは情報収集もままならないと判断したのだろう。カツカツとこちらに歩いてきた彼は、紫堂の前へと膝をつくと深々と頭を下げてきた。
「醜態だな」
「はい、面目もございません。かくなるは私自ら陣頭にて指揮をして事態の収拾をはかりたいと思います」
椅子に座り、肘をついて目の前の初老の男を見下ろす紫堂。その顔からは笑顔が消えていた。先ほどまで子供のようにはしゃいでいたのが嘘のように、寒気がするほど冷たい目をしているのだ。
視線だけで人を殺しかねない支配人が、そんな紫堂を前にして冷や汗を浮かべている。改めて彼が犯罪組織の幹部であるのを思い知らされる一幕だった。
「……わかった、迅速に対応しろ」
「はッ、それでは失礼します」
強張った表情で立ち上がり、報告に訪れていた黒服の男たちを引き連れて支配人はホールを後にした。
しばらくして警報は止まったものの、事態の収拾には至っていないようで、慌しく出入りするスタッフの動きからそれがうかがえた。
「……やれやれ、ようやく盛り上がってきたところを水を挿されてしまったな」
「そうだねぇ、ここまでウチのスタッフが混乱するなんて、普通じゃあり得ないもの……内部から、誰かさんが手引きしてるのかもねぇ」
笑顔をおさめた紫堂であろうとも琴里は態度をかえようとはしない。
相手が誰であろうとも彼女は態度を変えなさそうだ。そして、紫堂自身も彼女の態度を咎めたりはしないようだ。。
「ここまで大規模となると、おのずと容疑者は限られてくるが……まぁ、なんだかんだで、俺もまだまだ敵が多いからねぇ」
茶化してみせた紫堂の表情は、なんとも表現がしづらいものだった。
(苛立ちや怒りではない、どちらかというと寂しさ……そして、なにかを期待しているのか?)
先ほど俺に対戦者であることを求めた時に近い印象を受ける。
ただ、そのときのように無条件な悦びではなく、なにかの感情が混ざりあい複雑さを感じさせるものだった。
そんな彼の様子に琴里が苦笑いを浮かべる。
「あらあら紫堂くんは機嫌を損ねてしまったみたいね、原因を作った人は彼を満足させられないと大変よ」
紫堂の性格を事細かく把握しているのだろう。屈託のない笑みを浮かべる彼女であったが、小走りで近づいてきた黒服になにか耳打ちされると、彼女もまた笑顔を収めることになった。
「あーぁッ、アタシも今夜はここまでみたい……野暮用で呼び出しがあったからお暇するね」
軽やかに椅子から立ち上がった彼女は、前屈みになって俺の方をみつめてくる。
彼女の瞳にはなにか抗えない強い力を感じさせられて、自分からは視線を外せなくなる。
その黒く澄んだ瞳の深奥へと魂ごと引きずり込まれそうな錯覚に襲われる。
動けずにいる俺の頬を彼女の小さく、そして冷たい掌がそっと触れてくる。
魅了という言葉が的確だろう。まるで初恋の相手と再会したような甘酸っぱい想いが込み上げてくるのだ。
「紫堂くんじゃないけど、キミにはなにか期待しちゃうモノを感じるのよねぇ、いろいろと期待させてもらおうかな」
覗き込むようにして俺を見つめていた琴里。彼女の瞳に映る俺はだらしなく口元を緩めて恍惚とした表情を浮かべているのだった。
そんな俺のようすにニッコリと年相応の笑顔を浮かべてみせる。
その途端に呪縛から開放されて、ドッと吹き出した汗が滝のように流れ出すのだった。
「でもルーキーくんとは、これでお別れかもねぇ、強運があればまた会いましょうね。それじゃ、紫堂くんもまたねッ」
若者特有の軽いノリで別れを告げて、琴里は黒服の男を引き連れて立ち去っていった。
そんな彼女の背に向かって、紫堂は手だけをヒラヒラと振って応えていた。
彼の目は手元においた端末へと向けられていた。
いくつも開いたウィンドウに施設内の情報を次々と表示させ、そのひとつには黒服たちの指揮をしている支配人の姿もあった。
「どういうことだ、なぜ、まだ確認ができんのだ。カメラが映らんのなら直接、現場に人を送らんかッ」
支配人の苛立った声がスピーカーから漏れ出ていた。
どうやら矛盾する情報が交錯してスタッフの間でも混乱が生じているようだ。
それを解消するために彼がひとつひとつに対応して、判断と指揮に労力を割かれていた。
「これでコイツも易々とは動けなくなったわけだな……」
ここまで混乱が収まらないことはなかったのだろう。ただならぬ雰囲気を感じ取ったVIP会員たちからも、ザワザワと動揺する気配が伝わってくる。
何かを感じて席を離れる者、どこへか連絡をとる者と出始めて、落ち着いて調教ショーを鑑賞する雰囲気ではなくなっていた。
狗面の黒人に駅弁ファックをされていた涼子さんも、今は身体の奥まで貫いていた巨根を抜かれて美里さんとともに床へと転がされていた。
彼女を嬉々として貶めていた蛍さんは、紫堂以上に中断されたことに苛立っているようだ。
横たわる涼子さんの豊かな乳房をグリグリと踏みつけて、なにやら彼女へとなにやら囁いている。
その表情から、再び言葉の暴力で涼子さんの心を切り刻んでいるのが伝わってきた。
「まったく、根暗キャラは責めもネチネチしてて息苦しくなりますわね」
その光景に嘆息しながらナナさんが姿をみせた。
カツカツとヒールを響かせて、あい変わらず美しい歩みを披露する。それだけで、鬱積していた嫌な気分が晴れるかのようだった。
真紅のボディスーツ姿なのは変わらずで、こちらに歩いてくると紫堂の前で仁王立ちする。
(……おや?)
彼女の雰囲気が今までとは違った。紫堂へと向けられた視線には挑発的なものを感じさせられる。
だが混乱するホール内でそれに気づいている者は視線を向けられた紫堂と、そばにいた俺ぐらいのものだろう。
「……ふぅ、やはり、お前の仕業か」
「えぇ、その通りですわ」
「ここまで混乱を長引かせるからには、それなりのセキュリティへのアクセス権限と長い下準備が必要だろうからな、お前か八咫ぐらいしか考えられないよ」
まるでタバコの休憩での立ち話のように雑談めいていたが、その内容は衝撃的なものだった。
(……え? この騒動を起こしたのがナナさんだと言ったのか?)
裏切りを疑われているというのに、ナナさんは愉快そうに即答して認めてみせた。
まるで悪戯を指摘された幼子のように清々しいまでの笑顔に、俺は素直に会話の内容を呑み込めずにいた。
「はぁ、よりにもよってこのタイミングでかよぉ」
「いつか裏切るとわかってて私を側に置いてましたでしょう?」
その会話からナナさんの裏切りが二人の間では特別に驚くことでない共通認識であったのがわかる。
わかるが、それを素直に飲み込むことは不可能だった。それはそうだろう、寝首をかこうとしている者だとわかって、手元に置いておくような馬鹿は普通はいない。
事実、こうして裏切られているのなら世話がないだろう。
だが、同時に短いながらも紫堂という男と接した経験から、この男ならありえる事だと思うようになっていた。
(愉しめるなら、ここまでやるのかよ?)
地上でナナさんにオーナーの事に関して聞いた時、彼女は「私のようなモノをプラチナランクにして、手元に置くぐらいですから……」っと言っていた。
その時は軽く聞き流してしまった言葉だが、それが意味していたのはこの事だったのだろう。
「まぁなぁ、俺に尻尾を振ってみせるヤツは大好きだからなぁ。それに、同じく潜入していた同僚が目の前で処分されていく光景を前にしても涼しい顔をしてみせたお前を、本当に気に入っていたんだぜ。存外、俺の手元で牝奴隷でいるのも悪くなかっただろう?」
「えぇ、正直、居心地が良すぎて本分を忘れてましたわ。このまま奴隷でいるのも悪くはないとまで思いましたもの」
そう答えてみせたナナさんが、チラリと俺を見てきた。
彼女がとある事情で潜入している事は、彼女に抱きつかれて告白された時に打ち明けられていた。
――それは、私が貴方様を――紫堂を釣る餌にしたいのですわ……
監視カメラが周囲にある中で、耳元で囁かれた言葉に大いに驚き、戸惑った。
そんな場所で自身の命に関わる秘密を暴露した上で、そんな言葉を口にしてみせたのだ。
冗談で口にしてよい話でもないし、ブラフで罠にはめるにしては回りくどい。
ナナさんほど魅力的な女性なら甘言でいいように操ることも可能だろう。そうしない事で彼女が本心を伝えてきた可能性が高いと判断したのだった。
もちろん、その場ですべての信じるほど俺も楽観主義でもなかった。
だからギリギリまで決断は遅らせたし、大いに悩んだ。
だが、事態が進んで俺をサポートしてくれる彼女に頼るしか手がなくなり、俺も腹を括って彼女を信じることにしたのだった。
「それを変えたのがルーキーってわけか……こりゃ、先に彼には一本取られたなぁ」
愉快そうに笑いだした紫堂に、周囲にいた者も驚いたように見てくる。それを気にせずに、彼は腹を抱えて笑い続けていた。
「あーッ、笑った、笑った。ナナにここまでさせるとは俺も予想外だったよ……で、気が変わったから退職するっていうのかよ?」
「えぇ、退職金は勝手にもらっていきますので、お気になさらずに」
「ハイそうですかっと、ことが簡単には済まないのも理解しているよなぁ」
一転して殺意を籠めた紫堂の視線を、ナナさんは平然と受け止めてみせる。
彼女は、オーナーのことを「自分に尻尾を振るモノにはビックリするぐらい寛容で、牙を剥くモノにはトコトン残酷になる」と称していたから、こうなる事も当然、予測していただろう。
だが、彼女は武器らしい武器を身につけずに現れた。
奇妙な格闘術を持ってそうだが、異常を察して駆け寄ってきた黒服の男たちは多く、多勢に無勢だ。
取り囲んだ連中の手にはバチバチと電流を流したスタン警棒を持たれて、ゆっくりと包囲の輪を縮めてくるのだ。
「なぁ、これで捕まえられるとは俺も思ってはいないんだが、姿をさらしたからには何か策があるんだろう?」
包囲の外へと身をひいた紫堂は、なにかを期待するような目でナナさんを見つめてくる。
敵対している彼女の能力を高く評価しているのは変わらないようだ。紫堂という男はつくづく変わっている。
(とはいえ、これはピンチだな……)
正直に言えば、俺は事態の急変についていけていない。当然のように、この窮地から脱する妙案があるわけでもない。
包囲の外では涼子さんがシオさんと狗面の男たちに囚われたままだし、玲央奈もタギシさんの相手をしていた女たちに身柄を押さえられているのも変わらない。
仮にナナさんが用意しているのが彼女らを見捨てて自分たちだけが逃れる手段であったなら、俺は拒否する覚悟でいた。
「ウフフッ、そんな険しい顔をなさらないでも大丈夫ですわよ。彼女らを置いてったら貴方さまに恨まれますもの」
いまだに俺を慕うような口ぶりをしながら、ナナさんは不敵に笑ってみせる。
「逆にここで全員を救ってみせれば評価はググーンとうなぎ登り……でしょう?」
そう語ると表情を改める。短いながらもいろいろな彼女の表情を見てきた俺でも、まだ見ていなかった凛々しい顔つきだった。
初めてみせる彼女の本気の表情に不覚にもドキッとさせられる。
そんな状況で見つめ合いながら、彼女は椅子に座ったままの膝の上に腰を下ろしてきた。
「…………おい?」
「はいッ、しっかりと私を抱きしめて下さいね、うふッ」
「な、なにを……」
突然、膝の上へと乗ってきたナナさんは、先ほど凛々しさはどこへやら、まるで甘えるように胸板に顔を摺り寄せてくる。
シャワーでも浴びてきたのか、まだシットリとして乾ききらない黒髪からは鼻孔をくすぐるよい香りがしてくる。
思わず口元が緩みそうになるのを、状況を思い出して気を引き締めるのだが、彼女の奇天烈な行動に戸惑っているのは周囲の男たちも同様のようだった。
それでも躊躇しながらも着実に包囲の輪を縮めようとする辺りは彼らもプロなんだろう。
「もぅ、せっかちさんですわね……さぁ、こちらを持って下さいませ」
そんな緊迫した事態だというのに、ナナさんはあい変わらず俺の膝の上にのって上機嫌そうだった。
潤んだ瞳で見上げてきた彼女がそっと俺の手に何かを握らせてくる。
「これは?」
握らされたのは、何かの端末だった。電源状態を知らせるランプやと透明カバーで覆われたボタンがあるだけのシンプルなものだ。
(……なんだろう、凄く嫌な予感がする……)
躊躇している俺をよそに、彼女は端末の電源を入れると透明カバーを外してみせる。
そして、その下に隠されていたボタンを露出させてみせた。
「うふふッ、共同作業ってドキドキしますわね」
俺の親指をボタンの上へと誘導すると、そこに自らの指も重ねながら楽しそうにそう語ってみせる。
「流されないように、しっかり抱きしめて下さいね」
「いや、ちょっとまって……」
「うふふ、ダメですよ――えいッ」
わずかな抵抗とともにボタンが深々と押し込まれる。すると頭上からピピッと電子音が聴こえてきた。
それはひとつではなく、次々と増え続けていった。
恐る恐ると見上げれば、透明な強化樹脂を組み合わせた巨大水槽、そこに夜空に浮かぶ星々のように電子音に呼応して小さな光源が増えていくのが見えた。
それは樹脂の表面に張り付けられた黒いボックスに取りつけられたLEDによるもので、綺麗な緑色の光が広がり、それが一斉に赤へと変貌する。
次の瞬間、ボボボンッと連鎖爆発とともに透明樹脂が砕き散り、水槽内にあった大量の水が洪水となって降り注いできた。
「うわあぁぁぁッ」
迫りくる水の壁におもわず声を張り上げていると、いつの間にか腰にはロープが括り付けられてナナさんの身体もろとも背もたれに固定されていた。
そのお陰で叩きつけるような奔流にさらされても、身体を流れに持っていかれることはなかった。
だが、俺らを取り囲んでいた連中はそうはいかない、水流に飲み込まれて姿を消していった。
「ゲホッ、ゴホッ……」
「あら、大丈夫ですか?」
放出される水の量が減り、水位が下りはじめた。
呼吸ができるようになった途端、水を少し飲み込んでしまい咽る俺に、濡れた黒髪をかき上げながらナナさんが笑ってみせる。
なにか吹っ切れたように実に清々しい笑顔を前にして、次に言うべきが言葉が見つからない。
「どうしましたの?」
「えーっと……助けてくれてありがとう」
「ウフッ、どういたしまして」
あらゆるものが押し流された周囲には人の気配はない。高い位置にあって被害を免れたVIPルールからは逃げ出す会員らの後ろ姿が見えるだけだ。
ホールに残っているのは自走式の磔台と俺が座っていたのと同じ三脚の椅子のみだ。
「これは、凄いことになっているな……」
ロープをほどき椅子から立ち上がれば、目の前には滝ができており、足元は腰まで浸かるほどの水で満たされていた。
取り囲んでいた男たちの姿はやはり見えず、ひとまずの危機は回避できたようだ
「――そうだ涼子さんと玲央奈は?」
身の安全を噛みしめる暇もなく、大事なふたりの姿もみえないことに気づく。
簡単には溺れはしないだろうが、押し流された際にどこかに叩きつけられでもしたら無事ではいられないだろう。
彼女らは拘束されているのだ、普段と同じには考えててはいけない。
涼子さんが転がされていた磔台の周囲へと駆け出していた。
「涼子さんーッ、玲央奈ーッ」
ジャバジャバと水をかき分けながら進み、声を張り上げるものの周囲からの反応はない。
俺の呼びかけに応える者はおらず、ただ目の前で流れ落ちる水の音が聴こえるばかりだ。
「くそッ」
焦りながら、それでも周囲の探索を続けていた俺の目の前で水面に黒い影がみえると、それは水面を盛り上げて姿を現した。
水を滴らせているのは見上げるほどの巨大な黒い影だ。それは狗の面を被った大男のひとりで、その黒い肌から涼子さんを最後に犯していたヤツだとわかる。
水中で気を失っていたのか、苦しそうに口から水を吐き出すと目の前にいる俺の存在に気づいたようだ。
仮面の奥の見える血走った目が俺を睨んでいる。拳を握り、血管を浮かせてプルプルと震える丸太のような太い腕。それで殴られれば、タダでは済まないだろう。
「やべぇ……」
周囲には武器になりそうなモノはなかった。仮にあったとしても手にする前に目の前で振り上げられる拳が俺の顔面にめり込む方が早いだろう。
腰まである水のせいで逃げることもできず、再び、俺は絶対絶命の状況に陥っていた。
「オゥッ、ナ、ナンダッ!?」
だが、その拳が振り下ろされる代わりに大男が狼狽した声を上げていた。
なにかに水中で絡みつかれているかのように盛大に飛沫を上げながら必死に逃れようとしているようだ。
(な、なんだ?)
一瞬、脳裏に浮かんだのは巨大な人食いサメだ。
だが、水があるといっても腰が浸かる程度で水深がそれほどあるわけでもない。巨大なサメがいれば、背びれぐらいは出ているものだろう。
そうでなくても水槽には人魚姿で拘束された女性たちがいたのだ。仮に人食いサメが同じ水槽にいれば彼女らが無事なはずもなかった。
(じゃぁ、コイツは何に襲われているんだよ)
目の前でバシャバシャと激しい飛沫があがり、時折、黒人の手が助けを求めるように水中からでてくる。
だが、大男が苦戦する謎の存在を前にして、俺はただ見ているしかできない。
それもすぐに収まることになる。ピタッと飛沫が止み、なにごともなかったかのように静かな水面に戻っていった。
「な、なんだったんだ?」
濁った水の中で立ち尽くして、息を殺して様子をうかがる。
すると、黒人が水没したのと同じ場所に影が浮かび、そこから新たな人影が姿を現した。
ーーそれは全裸の女性だった……
水の滴る長い前髪の合間からジッと俺を見つめる目と視線が合う。その途端、首筋がヒンヤリとさせられる感覚には覚えがあった。
――鷹匠 杏子
タギシさんに扮した紫堂が口にしていた名前が脳裏に浮かぶ。そして”、その時にでた奪還屋”という言葉がそれに続く。
彼が厄介事と懸念していた存在が目の前にいた。
全身から死神のような気配をまき散らしながら、その美しい裸体を目の前にさらしているのだった。
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