化面夫婦 (1/3)

 この国でも有数の企業グループのひとつである蒼月グループ、その社長に若くしてなった僕は絶大な権力と莫大な財産を持っているのだろう。
 そんな僕にも、どんな事をしても守りたいと思う大切なモノがあった。

「アナタ、こんな朝早くから、もうお出かけなんですか?」

 ひとり外出しようとしていた僕は、背後から声をかけられて振り返った。
 そこには妻の舞冬(まふゆ)が早朝だというのに高価な着物姿で、寝癖ひとつない完璧な身だしなみで立っていた。
 その背後には召使いたちが、いつものように一糸乱れぬ姿で並んでいた。

「あぁ、以前に話しておいただろう? 定例になっている年末の海外視察だよ。フランスで春から稼働する製薬部門の新しい工場も見てくるつもりだよ」
「そうですか……でも、黙って行かれようとするなんて寂しいですわ」

 妻が寂しげにする表情を陰らせる。それに僕は慌てて弁解した。

「すまない、なにぶん朝早いから君を起こすのも悪いと思ってね」
「でも多忙な日々を過ごされるアナタの体調の方が私には心配ですわ、今も顔色がすぐれないようですし……」

 スッと傍に寄ってきた妻の白い手が頬に触れる。それはまるで氷のように冷たかった。
 僕は手袋を取ると妻の手を掴む。そして、安心させるようにニッコリと微笑んでみせる。

「あぁ、大丈夫だよ、心配してくれてありがとう」

 その言葉に、心配そうにしていた妻がパッと表情をほころばせる。掴んでいる僕の手の温もりを愛しそうにするのを、そっと抱き寄せた。
 思えば妻の伴侶となってもう長い、付き合い始めた高校時代から数えて二十年以上にもなる。
 当時は下町にある小さな部品会社の跡取り息子だった僕が、妻と付き合うようになってから人生が一変した。今ではひとり娘であった妻の家に婿養子に入り、こうして大勢の召使いがいる豪邸にも住んでいる。

「では、行ってくるよ。留守中を頼むよ」
「はい、アナタ、いってらっしゃいませ」

 召使いたちが見送る中、妻がニッコリと微笑むと唇を重ねてくる。それを優しく受け止めて抱擁した僕は玄関を出た。
 目の前のロータリーにはシルバーボディのロールスロイスが待っていた。すでに荷物は積み込まれており、恭しく頭を下げる老運転手が後部座席のドアを開けてくれる。
 僕が乗り込むと車はゆっくりと動き出すのだが、蒼月家に長年仕える老運転手の卓越した運転は、飲み物が注がれたグラスに小波ひとつ立てずにまるで滑るかのようだ。それを心地よく感じながら本革のシートへと身を沈めると、車はそのまま広大な敷地を抜けて巨大な鉄門を通って外へと出ていった。

「ふぅ……」

 その瞬間、大きな息を吐いてしまうのは昔からなかなか抜けない癖だった。
 多大な責任を伴う業務からくる重圧やそれに伴う政府高官や裕福層と付き合う日々は、ただでさえストレスがたまる。
 良き経営者であり、良き夫でもあるつもりの僕だが、時々それに耐えられなくなりそうな時があった。
 そんな時は自分を見つめ直せる機会を持つことにしていた。今回も海外視察にかこつけて密かに1日だけプライベートの時間を確保していた。
 分刻みのスケジュールに追われる僕にとって、それは僕が僕でいられる貴重なひとときになる予定だった。



 海外諸国を飛び回る視察を終えて、待ちに待った時がやってきた。
 予定外の会談や航空機のトラブルが重なって半日遅れの帰国だったが、予定が変わるのはいつもの事だった。
 本来ならプライベートに用意した1日も丸々つぶれるはずだった。だが有能な部下たちが協力して必死に半日の時間をつくりだしてくれたのだ。その事実がなによりも僕には、ありがたかった。
 どんよりと厚い雲が覆う空の下、空港を降り立った僕は急いでタクシーをつかまえると運転手に多目の現金を渡して、目的の場所へと急いでもらった。

(あぁ、やっとだ……)

 ゴリゴリと石臼で心を圧し削られ続けるような日々に耐えて、ようやくこの時がやってきたのだ。
 海岸沿いの高速道路を走るタクシーの窓から流れる冬の景色を見ながら、期待に高鳴る鼓動を抑えられなかった。
 そうして着いた先は、海に面した埋め立て地に建てられたタワーマンション。蒼月グループの不動産部門が誇る最高の設備と強固なセキュリティを備えた最新鋭の建造物だった。
 広い吹き抜けのロビーに待機する警備員たちを横目に、エレベーターホールへと向かう。そこの最奥にある専用エレベーターでのみ行ける最上階フロアが僕が向かう先だった。
 この世に二枚しかない専用のカードキーを差し込むとカメラレンズで顔認証を受けていく。その後も数々のセキュリティをパスするとようやくエレベーターは静かに上昇を開始した。
 その先は最上階フロアを全てつかったペントハウスであり、僕が密かに用意した秘密のアトリエだった。
 そこには僕にとって大事な人が待ってくれているのだった。



 高校時代、放課後の美術室で油絵を描いていた僕のもとに、後輩だった舞冬が突然やってくると告白された。
 大企業の令嬢で校内では有名だった舞冬だが、それまで言葉を交わしたことも数えるほどで、正直いえば興味もなかった。
 それに当時は付き合っていた恋人の夏樹(なつき)がいた。
 幼い頃から柔道をしていて男勝りで少しガサツな幼馴染みの女の子だった。だけどちゃんと優しいところもあるのを知っていたし、夏樹の良いところも悪いところもひっくるめて僕は大好きだった。
 だから、舞冬の告白にも迷うことなく丁寧に断った。

――だが、それから僕の身の回りでおかしな事がおこりはじめた……

 小さいけど高い技術力が市場から評価されていた父親の会社が急に傾き始めたのだ。
 大企業が同じような製品を大量に安価で売り始めたのが原因で、それに加えてベテラン技術者を強引に引き抜いてきたのだった。
 取引先やメインバンクも次々と手を引きはじめて、日に日に憔悴していく両親。その姿に心痛めていた僕にも、すぐに恋人が別れを告げて去っていく事態が待っていた。
 突然のメールでの一方的な別れ話、その原因も分からぬまま僕の前から夏樹は姿を消した。
 慌てて恋人の家に駆けつけた時には、すでにもぬけの殻で家族で引っ越したようだった。

――売家の看板が下げられた無人の家を茫然と見上げたあの光景は、今でも夢にみる……

 連絡しようにも携帯は解約済みで、引っ越し先を周囲の誰もが知らなかった。
 家族ぐるみの付き合いであった恋人の突然の失踪に、どうすることもできない自分の無力さが悔しかった。

――だが、異変はそれで終わりではなかった……

 翌日には、親友が交通事故に巻き込まれて長期入院を余儀なくされた。
 次の日には、親しかった顧問の美術教師が突然の転勤で去ることになった。
 それ以外にも親しくしていた人たちが次々と僕のまわりからいなくなっていったのだ。

(なんだよ、これ……)

 毎日のようにそんなことが続けば、流石の僕でも不審に思う。当然、すぐに噂にもなって、次第に僕の周囲には誰も寄り付かなくなっていった。
 そして、ひとりたたずむ僕の前に舞冬が現れた。ニッコリと微笑む笑顔が今でも忘れられない。
 憔悴した僕に優しい声をかけてきた。そして、再びあの告白の答えを求めてきたのだ。
 それにどう答えるべきかは、そのゾッとする冷たい目の笑顔を前にして理解させられた。

――告白を受け入れた後の展開は容易に予想できた……

 舞冬と付き合い始めた途端に、全てが上手く……いや、今まで以上にまわりはじめたのだ。
 父親の会社は持ち直し、それどころか多額の融資を受けてどんどん発展して、今では海外でも名の知れた一流メーカーにまでなっている。
 そして僕も海外の有名大学を卒業した後は蒼月グループに迎い入れられて、出世コースを駆けのぼっていった。
 そうして、若くして大企業の社長にまでなった僕は、端からみれば幸運を手にいれたシンデレラボーイにみえたことだろう。
 だが、その幸運は全てつくられたものだと僕は知っている。
 それでも僕は、舞冬が望む理想の伴侶へとなるように死ぬような努力をしてきた。
 それは自分の心を殺し続ける行為であり、次第にすりきれていった僕の心はボロボロなっていった。
 だから僕は僕でいられる時を求めるしかなかった。この密かに用意したペントハウスのアトリエもそうだし、多忙な時間を縫ってつくるプライベートな時間もそうだった。

(そんな本来の僕らしくいられるわずかな時間に、彼女と出会った……)

 毎年恒例となっているヨーロッパでの視察。その合間にプライベートな時間をつくっては美術館を訪れることにしていた。
 一昨年の秋、パリのとある美術館を訪れた際、そこにキュレーターとして立ちあう彼女、更代 遥奈(さらしろ はるな)の姿があった。
 ハーフなのか彫りが深めな顔立ちの若い二十代女性が、イベント準備の陣頭指揮を取っている姿は目立ってみえた。
 肩でカールした明るい栗色の髪をなびかせて、きびきびと動いては適切な指示をだしていく。その手際のよさに、僕は本来の目的を忘れて見惚れていた。
 そして関心はすぐに彼女自身へと移っていった。
 日本人ばなれした肉感豊かなボディはルーベンスの女性画のように魅力的で、振り返った時の美貌は大好きなフェルメールの作品を見たときのような感動を僕に与えてくれた。
 数々の高名な美術品に囲まれる空間においても、僕にはどの作品より彼女が美しく輝いて見えていた。特に静かだが凛とした佇まいと、自信に溢れた表情で颯爽と歩く姿にかつての幼馴染みの姿が重なりドキッとしてしまった。
 今思えば、見つめていると吸い込まれそうになる清んだ黒い瞳も、幼馴染だった夏樹によく似ていた。
 それからは彼女に会う為にスケジュールを調整してはヨーロッパに出向いて美術館に通い続けた。だが、ようやく声をかけれるようになるまで半年近くもかかってしまった。
 初めて話し掛ける前後は、まるで十代に戻ったかのような緊張と高揚感に年甲斐もなくドキドキしていた。そんな感覚は久しぶりで、自分の様子に苦笑いをすると共に嬉しくもあった。

(何千、何万という従業員たちや曲者ばかりの政府高官を前にしても物怖じしない僕が、若い女性ひとりを前にして緊張して手に汗を浮かべるなんて……面白いものだな)

 初デートの約束を取り付けた時など、何百億とつぎ込んだ巨大プロジェクトを成功させた時よりも正直、嬉しかった。まるで子供のようにはしゃぐ僕の姿に、彼女もクスクスと笑っていたものだ。
 そうして、デートを繰り返していくうちに、お互いが恋に落ちるのにはそう時間はかからないかった。もちろん、その時までに素性をあかしていたし、それでも好きだという熱い想いも伝えていた。

(去年の暮れに、はにかみながら僕を受け入れてくれた彼女には、今も感謝しかない)

 多忙なスケジュールをお互い調整して会える貴重なひととき、その時間が僕のボロボロになった心の欠けた部分を埋めてくれるような気がした。
 今年は年の瀬を一緒に過ごす為に帰国した彼女が、一足先にペントハウスにいるはずだった。
 いつものように彼女が手料理を用意して出迎えてくれる手筈になっていて、僕も一足早いクリスマスプレゼントを用意してきていた。

(――おや?)

 専用エレベーターを降りると広々とした玄関なのだが、そこにはいつも出迎えてくれる彼女の姿がなかった。

(入浴中や手の離せない作業でもしているのかもしれないな……)

 そう思おうとしても不安が心を覆っていく。事前にしたメールにも返信がなかったのだ。
 靴を脱ぐと廊下を進んで奥のリビングへと向かう。そこへ近づくほどに違和感が強くなっていった。
 そして突き当たりにある扉を開けてリビングへと入ると、その違和感の正体を理解した。

――そこには、なにもなかった……

 百畳を越える広いリビングにあった全ての家具が無くなり、空き家のような寒々とした空間があるだけだった。冷えきっていた室内の空気に吐く息も白い。だが、身体の震えは寒さによるものではなかった。
 急いで広いペントハウスの部屋を次々と見て回る。彼女が美味しい手料理を作ってくれてるはずのキッチンも、ふたりで何度も愛を確かめあった寝室も、まるで今までのことが妄想だったとばかりに全てがもぬけの殻だった。

――そして、最奥にある僕がアトリエとして使っていた部屋でそれを見つけた……

 道具と共に彼女を描いた数々の作品が全て消え去り、代わりに床へと無造作に置かれた無記名のディスクと再生機能付きの大型テレビが残っていた。
 なにもない部屋に置かれたそれらが何を意味しているのかは明白だった。
 手袋を脱いで震える手でディスクをセットすると、迷わずにリモコンの再生ボタンを押した。
 目の前の高画質モニターに映し出されたのは、予想通りの映像だった。