気高き心は砕かれて、欲望の昏き水底へと沈められる・2

【1】スラム街の放置死体

 燦々と降り注ぐ太陽光が簡素な建物が並ぶスラム街を照らす。
 だが、常に増改築を続け、入り組んだ通路は迷宮のようで日の光も奥までは届かない。
 その地に住むのは貧民や隣接する都市部で夢破れた者ばかりで、貧困と虚無感が充満している。
 そんな街中の片隅に放置された女の死体があった。
 衣服はおろか下着すら身につけていない小柄だが豊満な裸体には、いたるところに入れ墨が彫られ、多数のピアスがつけられていた。
 ボウイッシュな髪形の整った顔立ちは、麻薬中毒者特有のやつれ方をしており、虚ろな瞳は細く見える青空を見えげていた。
 パシャッ、パシャッと鑑識の警察官が写真を撮り、現場検証を進めている。
 その周囲に進入禁止のテープは張り巡らせて見張りにつく警察官の中に、女性警察官であるクロエ=ベラスコ=イバラの姿もあった。
 スペイン系の若い女性で、制服の上からもわかるグラマラスなボディの持ち主だ。
 若さを感じる艷やかで褐色肌の顔立ちは、精悍であり情熱的な雰囲気を漂わせ、キリリとした柳眉が気の強さを感じさせる。
 長身でウェーブのかかった黒髪を首の後ろで縛った彼女が現場保全のために張られたテープの前に立っている姿は実に目を引く。
 だが、彼女を茶化す者はいない。その濁りのない瞳から彼女が法の番人としての警察官に誇りを持っているのが伝わってくる。
 そんな彼女はまだ新人警察官だが、将来は刑事になることを夢見ており、あとから来て現場を仕切っていた刑事たちの動向を密かに観察していたのだった。

(……なにかが、おかしい)

 無法と暴力が渦巻くスラム街では毎日、何人もの人死が出ている。全ての事件を捜査するには、あまりにも手が足りていないのが現状だった。
 そうでなくても首都警察の人員の多くはビル群が建ち並ぶ中央部にまわされ、高い壁で隔てられたスラム街を担当することは閑職としての色が濃い。
 まわされるのは新人や無謀にも上に楯突いた愚か者ばかりで、当然のように志気があがるはずもなかった。

(それでも、これでは……)

 若い女の声で通報を受けて、現場に駆けつけたのはクロエと相棒であり先輩警察官であるビセンテ=ウォルフの二人だった。
 女性の首には指の痕がクッキリと残されており、故意にしろ事故にしろ何者かの手にかかって殺されたのは明白だった。
 それなのに、刑事たちは被害者をひとめ見た途端、早々に捜査を終えようとしているのが傍目からでもわかる。

(被害者がスラム街の住人だから? いや、その場合でもいつもはマシ……なら、どうして?)

 帰り支度を始めた鑑識班を残して、刑事たちは早々に帰ろうとクロエたちの脇を通ろうとする。

「ちょ、ちょっと待って……」
「止めておけ」

 呼び止めようとするクロエを脇にいたビセンテが渋い顔で止める。その様子に刑事たちのひとりが気づいたようで足を止めていた。

「なぁんだ、誰かと思ったらビセンテ先輩じゃないですか、一般警官の姿だからわかりませんでしたよ。こんなところに配属されていたんですね」
「……あぁ、久しぶりだな、マーシー。そちらは、無事に出世できているようだな」
「えぇ、お陰様でね。教育係として先輩には随分とお世話になりましたね。その先輩が制服警官に逆戻りになる一方で、僕の方は今や部長職ですけどね」

 優男といった風のマーシー本部長は、ピシッとノリの効いた上等なスーツを身につけており、周囲の対応からも彼が管理する役職なのがわかる。
 その彼からの蔑みともみえる対応を受けても、ビセンテは「それはよかったな」と淡々と受け流すだけだ。
 期待した反応を得られなかったらしく、マーシーは肩を竦めると去っていった。

「な、なんなんですか、あれ……知り合いだからって……」
「気にするな、そして、すぐに忘れろ。それから、この件にはこれ以上は首を突っ込むなよ。刑事になりたいっていうのなら、ああいう奴らと上手くやれるのも必要なスキルだぞッ」

 ビセンテは口髭を生やしたイタリア系の中年男性だ。
 樽腹で緩み切った身体に、隈の消えない目元に濁った瞳とクロエとは実に対象的な男だった。
 新人であるクロエは教育係としての彼とコンビを組まされていたが、彼自身が自分のことを話さないために詳しくは知らなかった。
 ヘビースモーカーでアルコール依存症でもあるらしく、今も隠し持ったスキットルを震える手で取りだして口を付けている。

「先輩は、あの人の先輩でもあったってことは元刑事? って、なにしれッとお酒を飲んでるんですかぁ、ダメですよ」
「うるせぇな、俺は良いんだよ」

 親子ほど歳が離れていそうなクロエに注意されて渋々とスキットルを懐に戻すと、ビセンテは背を向けて回収されていく遺体を見送った。
 結局、身元不明でただの事故死として処理されるらしく、明日には事件のことは忘れられていくだろう。この街では珍しくもないことだった。

「彼女のこと、先輩も知っているんですか?」
「さぁなぁ、忠告しただろう? 刑事になりたいのなら、この件のことは忘れろ」
「嫌ですッ、私の理想とする刑事は、そんなことはしませんから」

 相棒の言葉に拒絶の意志を示すと、クロエはスタスタと歩き出していた。

「お、おいッ、どこに行くつもりだッ」
「聞き込みですよ。誰も教えてくれないなら、自分で調べます」
「ま、待って……あぁ、くそぉ、もう面倒事はこりごりだっていうのによぉ、この馬鹿がぁ」

 唾を地面に吐き捨てたビセンテは苛立った様子でボリボリと頭を掻いていたが、大きな溜息をつくとクロエの後を追うことにした。
 スラム街の住人は警戒心が強い。物陰から覗き見ているくせにクロエが近づくと脱兎のごとく逃げていく。
 それを追って走り出すものの迷宮のように入り組んだ通路ですぐに撒かれてしまうのだった。

「もぅ、なんでみんな逃げちゃうのよ」
「ぜぇ、ぜぇ、きゅ、急に……ぜぇ、ぜぇ……走るなよ……」
「先輩の方は煙草を止めた方がいいみたいですね……って、なんだかんだ言って付き合い良いですね」
「う、うるせぇ……はぁ、はぁ……たっく、効率が悪すぎるんだよ、お前……はぁ……ちょっと、ついてこい」

 これ以上、走り回されるのを嫌ってか今度はビセンテの方は先導する。
 正確な地図もない通路を迷うことなく歩き続けて、彼は建物の陰に座り込む乞食を見つけ出す。

「よぉ、景気はどうだ? マリオ」
「おぉ、こりゃ、ビセンテの旦那、ご無沙汰しておりやす」

 差し出された煙草を嬉しそうに受け取り、スパスパと二人で吸い始める。充満する煙に眉をひそめて、一歩身を引いてしまうクロエだった。

「……で、今回はなんのご用で?」
「あぁ、新人にちょっと教えてやって欲しいことがあるんだよ」

 指をさされてクロエは戸惑いながらも挨拶する。
 だが、ボロ布をまとった乞食はチラリと見ただけでまるで彼女は存在しないかのように扱う。
 親しそうに話しかけられるビセンテとの態度の違いから、自分がよそ者と見られて歓迎されていないのが嫌が上でも実感させられる。
 このマリオと呼ばれる男は中肉中背で、顔は凡庸でとくに目立った特徴もない。年齢すら曖昧で会話の途中でも少年のようなあどけない笑顔を浮かべたと思えば、次の瞬間には生き疲れた中年男性のような表情を浮かべる。

(あえて上げるなら、特徴がないことが特徴かしら……)

 職業柄、人の顔を覚えるのが得意なクロエであったが、この男が一度、人混みにでも紛れられたら見つけ出す自信がなかった。
 そんな捉えどころのない男は、このスラム街のことに精通しているらしく、様々な情報が彼の耳に入ってくる。
 刑事時代のビセンテとは情報屋のような関係で、たびたび捜査にも協力してたようだ。

「旦那の頼みとありゃ、しょうがないですがねぇ……あっしとしては、例の死体遺棄の件には正直、関わりたくないんですわ」
「あぁ、無理を言っているのはわかってる」

 懐から紙幣の束を丸めたものをそっと差し出すと、渋々といった様子で乞食を装った男――マリオは喋りはじめた。
 死体で発見されたのはスラム街の深部にある下級娼館に所属する女だった。
 そこは今やこの首都一帯を裏から牛耳る組織のボス、ロドリゲスが幹部時代から管理してきた地域で、密かに招き入れている政府高官や裕福層の歪んだ欲望を満たす秘密の場所でもあった。
 女はロドリゲスが乗っ取った組織の前ボスの娘であり、追撃から逃れてスラム街に幼い頃に落ち延びた姉妹の姉――ルイザであった。
 生まれつき病弱だった妹を抱えて逃亡生活を過ごしていた彼女は、スラム街に広がる新型麻薬を憂い、それを阻止しようと志を同じくする少年少女を集めて愚連隊を組織するとロドリゲスの組織に対して反抗活動を続けていた。
 だが、麻薬を買う金の欲しさにスラム街の住人達に裏切られ、ついにはロドリゲスに捕らえられしまった。
 その後は、その娼館に幽閉されて下級娼婦として男たちの欲望を受け止めさせられていたのだった。

「そうなると、容疑者はその客かロドリゲス、または関係者か……」
「おい、何考えてやがるッ。ヤバいのはもうわかっただろうがッ」
「えぇ、でも容疑者まで浮かんでいるのに、見て見ぬふりはできませんよ」
「お、おい待てってッ……チッ、くそぉッ、あきらめさせるつもりが逆効果だったか、あの馬鹿を焚きつけちまった」

 スラム街どころか、今やこの国の中枢まで影響力を伸ばすロドリゲスが絡んでいるとわかれば、流石に手を引くとビセンテは思っていたのだ。
 だが、その思惑は外れて正義感に燃えるクロエはさらに捜査を進めようと闘志を燃やすのだった。

「じゃぁな、マリオ。かみさんにもよろしくな」
「えぇ、旦那も気を付けて」

 揉めながら立ち去っていく二人を見送ったマリオは周囲に誰もいないのを確認すると、懐から取り出した最新モデルの端末で、どこかへと連絡をとりはじめる。

「旦那、ウチのかみさんはねぇ、麻薬のやり過ぎで、もぅあっしの顔も分からねぇ状態なんですぜぇ」

 連絡を終えたマリオは自虐的な笑みを浮かべながら咥えていた煙草を踏み消す。

「旦那も変われますかねぇ……前回のときと同じように、その女を見捨てられると良いんですがねぇ」

 新たに取り出した葉巻に火を点けて、マリオは疲れた表情で煙を吐き出だすのだった。


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